2010年11月07日

メモ(3):シネマ2*時間イメージ

引き続き、探求のためのメモ。
「第9章イメージの構成要素」、「シネマ2*時間イメージ」(ジル・ドゥルーズ)から。





「トーキとサイレントとの断絶やそれが引き起こした抵抗が、しばしば強調されてきた。しかし、いかにサイレントがトークを招いていたのか、すでにトーキーをはらんでいたのかということも、それに劣らぬ根拠をもって提示されてきたのだ。・・・サイレントとトークの構成要素を比較するなら、たぶん別の差異が浮かびあがってこよう。サイレントのイメージは、見られるイメージと読まれる字幕(眼の第二の機能)から構成されてくる。字幕はそれ以外の機能とともに、言語行為を含んでいる。」

「・・・トーキ映画とともに何が起きたのか。言語行為は、もはや眼の第二の機能に関係づけられず、もはや読まれず、聴かれることになる。・・・

[・・・視覚的イメージとは別の要素であった字幕とは異なって、発話や音声は聴かれるものだが、ただし視覚的イメージの新たな次元、新たな構成要素として開かれるのである。・・・」



「・・・サイレントは、可視的なイメージと可読的な言葉との再分配を行なっていた。しかし、言葉が耳に聴こえるようになると、言葉は何か新しいものを見させ、非自然化された可視的イメージのほうは、可視的ないし視覚的なものとして可読的となり始める、ということができよう。可視的イメージは、以後、問題提起的価値、またはサイレントにおいてはもっていなかったある種の両義性を獲得する。・・・」

「・・・サイレントに対して、トーキーの中で生み出されようとする、ある反転が出現する。見られるイメージと読まれる言葉にかわり、言語行為は聴かれると同時に見られるものになり、視覚的イメージも、それ自体として、すなわち言語行為という構成要素を挿入された視覚的イメージとして可読的になる。」



「唯一のサウンド・トラックがあるのではなく、少なくとも三つのグループ、言葉、物音(ノイズ)、音楽があるということが、しばしば想起される。・・・」

「・・・音声はありとあらゆる形で画面外をみたしにやってくるのであり、この意味でいっそうイメージの構成要素と化す。声の水準では、それは音源が見えないがゆえにオフ・ヴォイスとよばれるものである。」

「・・・サイレントであろうとトーキーであろうと・・・映画は、たえず内化しかつ外化し続ける巨大な「内的モノローグ」を構成している。それは言語ではなく、言語の言表可能なものである視覚的素材であり、ある場合は間接的言表(字幕)に、別の場合は直接的言表(言語行為と音楽行為)に関係づけられる。


「・・・古典的映画と現代的映画の差異は、サイレントとトーキーの差異と一致するわけではない。現代的とは、発話、音声、音楽の新たな用法を意味する。それはおよそのところ、言語行為が視覚的イメージに対する依存関係から解放されようとして、それ自体としての価値、ただし非演劇的な自律性を獲得するかのようだ。・・・」

「・・・われわれが視覚的イメージの読解とよぶものは、地層の状態であり、イメージの反転であり、これに対応して、空虚を充実に、表を裏にたえず変換する知覚行為である。読むとは、連鎖されるかわりに再連鎖させること、表をたどるかわりに、めくり裏返すことであり、新たなイメージの<分析法>なのだ。・・・」

「今や直接的となったのは、全体化できず、触れあうことで死滅してしまう二つの非対称的な面とともにある時間イメージそのものなのである。どんな外よりも遠い外の面と、どんな内よりも深い内の面があって、後者においては、音楽的な言葉が立ち昇り、もぎとられ、前者においては、可視的なものが隠蔽され、あるいは埋蔵されるのだ。」

マルグリット・デュラス 「ガンジスの女」「インディア・ソング」「ヴェネチア時代の彼女の名前」


第10章 結論

「映画は、普遍的なあるいは本来的な言語ではなく言語活動でさえもない。映画は知的に認識しうる素材を明るみに出すのであり、この素材は前提、条件、必要な相関物のようなものであって、言語はまさにこれを通じて、みずからの固有の「対象」(意味表現の単位と操作)を構成するのである。しかしこの相関物は確かに言語と不可分であっても、それ自体固有のものである。つまりそれは運動と思考の諸過程(言語以前のイメージ)からなり、またこれらの運動と過程に対して確立される観点(意味以前の記号)からなる。これはまさに、固有の論理をもつ「心理機構」、精神的自動装置あるいは一言語によって言表可能なものを構成するのである。言語はそこから意味表現の単位と操作とともに、言語活動の言表を引き出すのであるが、言表可能なものそれ自身、そのイメージと記号は別の性質をもっている・・・」

「・・・われわれにとって映画は、まさに自動的あるいは心理機構的な効力によって、言語以前のイメージと記号のシステムなのであり、映画なこのシステムに固有のイメージと記号の中に言表をとりこむように思われた。・・・だからこそサイレントとトーキーの断絶は映画の進化において、決して本質的なことではなかった。逆にこのイメージと記号のシステムにおいては、二種類の記号に対応する二種類のイメージの区別、つまり運動イメージと時間イメージの対立こそが本質的であり、時間イメージの方は後になって登場し発展したのである。運動的構造と時間的生成は純粋な記号論のあいつぐ二章を構成する。」

運動イメージ
時間イメージ

「映画についての理論的な書物の効用が疑われることがある(特に今は難しい時代だ)。・・・映画の理論は映画を対象とするのではなく、映画の諸概念を対象とするのであって、これらの概念は映画そのものに劣らず、実践的、実効的、あるいは実在的である。」
posted by amky at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | reminder
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