2010年10月30日

メモ(2):シネマ2*時間イメージ

引き続き、「シネマ2*時間イメージ」(ジル・ドゥルーズ)、「第8章映画、身体と脳、思考」から。

どうして、私が実験映画に惹かれたのかを知りたい。
探求のためのメモ。


「『だから私に一つの身体を与えて下さい』、これは哲学的な大転換を示す定式である。身体はもはや思考をそれ自体から分離するような障害なのではなく、思考するにいたるために思考が克服しなければならないようなものではない。反対にそれは、思考が思考されないものに到達するため、つまり生に到達するために、その中に潜入する何か、潜入しなければならない何かなのである。だからといって身体そのものが思考するのではなく、身体は執拗に頑固に思考することを強い、また思考をのがれるもの、つまり生を思考することを強いるのである。もはやわれわれは、思考の諸カテゴリーの前に、生を出頭させることはやめて、思考を生の諸カテゴリーの中に投げ込むだろう。生の諸カテゴリーとは、まさに身体の態度であり姿勢なのである。・・・思考するということ、それは一つの思考しない身体がなしうること、その能力、その態度あるいは姿勢を学ぶことである。まさに身体によって(もはや身体の媒介によってではなく)、映画は、精神と、また思考と結びつく。『だから私に一つの身体を与えて下さい』、それはまず日常的な身体の上にカメラをすえることである。身体は決して現在に属しているのではなく、以前と以後を内包し、疲労、待機を内包している。・・・」

「・・・実験映画において、われわれは、このような日常的身体と儀式的身体という、二つの極を発見し、また再発見する。実験映画は必ずしも先駆的ではなく、それは後にやってくることさえありうる。実験映画と、他の映画の違いは、前者が実験するのに対して、後者は、映画的な過程の必然性とは別の必然性のおかげで、何かを発見するということである。実験映画において、この過程はカメラを日常的身体の上にすえる。・・・」

ウォーホール 『スリープ』、『イート』
ブルス、ミュール、ニッチ




「『私にひとつの脳を下さい』というのが、現代映画のもう一つの形象である。これは身体的映画とは異なる知的映画である。実験映画は、2つの領域に区別される。日常的または儀式的な身体の物理学、そして形式的または無形式の精神の『形相学』である。しかし実験映画は、一方は具象的、他方は抽象的という2つのプロセスにしたがう区別を展開している。けれども、具象的と抽象的という区別は、実験する以上に創造する映画にとっては、よい基準とはいえない。・・・いずれの側にも、具象的なものも、抽象的なものも存在する。つまり頭脳の映画にも、身体的な映画にも、等しく感情あるいは、強度、情念が存在するのである。・・・身体または頭脳、それがみずからに与えられていることを映画は要求し、それを自分自身にもたらし、まさにそれをみずから発明し、二つの方向にそって作品を構築するのだが、そのいずれの方向も、同時に抽象的であり具象的である。したがって区別は具象性と抽象性の間にあるのではない(実験映画の場合をのぞいて、その場合でも、区別はほとんど恒常的にあいまいである)。頭脳の知的映画と身体の物理的映画は、そのような区別の源泉を別のところに、実に変化に富んだ源泉として、様々な作家たちに見いだすことになるが、これら2つの極の一方に引かれる作家たちもいれば、両極とともに構成を行う作家たちもいる。」

アントニオーニ
キューブリック
レネ
エイゼンシュタイン


「抽象的あるいは『形相的』映画さえも、同じような進化をたどっているようである。概略的な時代区分によれば、第一の時期は、幾何学的形象の時期であって、それは形象の認知しうる要素の統合かつ分化にかかわる垂直軸と、物質−運動における形象の連鎖かつ変形にかかわる水平軸という2つの軸が交差するところに把握される。・・・」

エッゲリング 『対角線交響楽』
リヒター 『リズム23』

「・・・第二の時期には、線と点は形象から解放され、同時に生命は有機的な表象の軸から解放される。・・・」

マクラレン『色彩幻想』『線と色の即興詩』『シンクロミー』

「・・・第三の時期がやってきて、黒い、あるいは白いスクリーンが、あらゆるイメージの外部と等価となり、点滅によって、非合理的切断としての間隙が増殖され、円環状のプロセスが再結合を行うのである。・・・」

トニ−・コンラッド 『フリッカー』
ジョージ・ランドウ『透明なバターの表面に昇る映画』

「・・・レトリスム(文字主義)は、この方向においてすでに、はるか先に進んでおり、幾何学的な時期と、『フィルムにじかに刻む』時期の後で、カメラも、スクリーンも、フィルムも使わずに拡張する映画を宣言していた。主人公の身体または観客の身体さえも、すべてがスクリーンになりうる。・・・
要するに、脳の3つの構成要素とは、点ー切断、再結合、黒か白の画面(スクリーン)なのである。もし切断が、それによって決定されるイメージの2つの系列のいずれにも属さないとしたら、両方で再結合が起きるだけである。そして切断が拡大され、それがあらゆるイメージを吸引してしまうなら、そのとき、距離とは無関係な接触として、黒と白の、否定と肯定の、表と裏の、充溢と空虚の、過去と未来の、頭脳と宇宙の、内部と外部の共存あるいは接着として、切断そのものが画面(スクリーン)となる。位相幾何学的、確率論的、かつ非合理的な三つの様相こそは、思考の新しいイメージを構成する。それぞれが容易に他の様相から演繹され、これらとともに循環を形成する。それこそが精神世界なのだ。」


「レネとストロープ夫妻は、おそらく西洋現代の映画における最も偉大な政治的映画作家である。しかし奇妙なことにそれは、民衆を現前させるのではなく、反対にいかに民衆が欠けているもの、現存しないものであるかを、彼らが示しているからなのだ。・・・」

[・・・古典的な政治的映画と現代のそれとの間には第二の大きな相違があり、それは政治-私人の関係にかかわる。カフカが示唆しているのは、『メジャーな』文学は、いつも政治と私人の間に、たとえ流動的ではあっても、一つの境界線を引くのに、マイナーにおいては、私的な事柄がじかに政治的であり、『生死の判決をもたらす』ということである。」

ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」(宇野邦一訳、法政大学出版局、2006年)



posted by amky at 18:14| Comment(0) | TrackBack(0) | reminder
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