2010年10月13日

メモ(1):シネマ2*時間イメージ/シャンタル・アケルマン

メモ(1)ジル・ドゥルーズが、「シネマ2*時間イメージ」の「第8章映画、身体と脳、思考」で、シャンタル・アケルマンならび女性作家たちについて書いているところがある。

シャンタル・アケルマンの作品は、日本の研究会などで『ジャンヌ・ディールマン』、『お腹がすいた、寒い』を、パリの小さな劇場の回顧上映(1999年)を見る機会があり、とても関心がある。
確かにサウンドが印象深い。



「ヌーヴェル・ヴァーグ以来、美しく、また力強い映画が現れるたびに、われわれは身体の新たな探求に立ち会ってきたのだ。『ジャンヌ・ディールマン』以来、シャンタル・アケルマンは、<様々な身振りを充実した状態において>示そうとしている。・・・シャンタル・アケルマンの新しさとは、こうして女性の人物に固有な身体の状態の記号として、身体の態度を示すころであり、かたや男性たちは、社会、環境、たまたま彼らの手に入る分け前、彼らが引きずる歴史の断片といったものを証言する。




しかし、女性的身体の諸状態の連鎖は閉じられることがない。母親から由来し母親にさかのぼるこの連鎖は、もはや自分自身にしか語らない男たちにとって啓示的なものとなり、もはや部屋の窓や、電車の窓を通して、ただ見せられ聞かれるだけの環境にとっては、いっそう深い啓示となる。ここにはまさに音の映像がある。その場で、あるいは空間で、女性の身体は奇妙なノマディズムとなり、それによってこの身体は、年齢も、状況も、場所も越えて進むのである(これはまさに文学におけるヴァージニア・ウルフの秘密であった)。身体の様々な状態は、ゆるやかな儀式を分泌し、それが諸状態に対応する態度を再結合し、男性の歴史と世界の危機を把握する女性的なゲストゥスを展開する。このゲストゥス(身振り)こそが、厳粛な演劇化あるいはむしろ『様式化』としておごそかさを身体に与えつつ、身体に反作用する。にもかかわらず、映画と人物をまた閉じ込めてしまう傾向をもつ過剰な様式化を避けることは可能かどうか、これはシャンタル・アケルマン自身が問うている問題である。ゲストゥスはむしろ、何も放棄することなく滑稽になり、映画に軽やかさを、抵抗しがたい陽気さをもたらす。

 女性作家たち、女性監督たちは、闘うフェミニズムのうえに重要なのではない。もっと重要なことは、彼女らが、このような身体の映画において何かを革新する仕方なのである。あたかも女性たちは、みずからに固有の態度の源泉と、そのような態度に対応する時間性とを、個人的なあるいは共同のゲストゥスとして勝ち取らなければならないかのようだ。」

ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」(宇野邦一訳、法政大学出版局、2006年)


posted by amky at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | reminder
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